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| 1949(昭和24)年 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 8.12 東急−中日(白山) “デカちゃん”杉山悟が大爆発 あわや1試合4HRの大記録 |
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| Ver.2.1 06/28/2003 |
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| 49年の2試合目は8月12日(金)、新潟市営白山野球場の東急フライヤーズ−中日ドラゴンズ 戦。この年、市制60周年を迎えた新潟市の周年記念事業の一環と銘打たれ、新潟日報社が主 催して行われた。新潟日報主催の信越シリーズは、これが通算3回目。 中日の新潟来港はこの年、5月の対巨人戦に続いて2度目となる。但し今回は鶴岡、秋田へ と日本海沿いに北上しながら北海道まで転戦してゆく日程の、その初っ端の来港だった。 尚、今回からは、プロ参加の前試合やホームラン競争などのアトラクションは、選手のコ ンディションを考慮して行われないことになった。日報及びスポンサー各社はその代わり、 各賞の表彰枠を充実させることで対応した(賞の内容、当日の開催体制等は後述)。 <1949年は“スポーツテーマ誕生の年”> さて、話はこの試合の内容とはまるっきり外れるが、日本のスポーツ史上並びに放送史上 において、この年にぜひ触れておきたいことがある。 1949年4月18日、この日からNHKのスポーツ中継番組の開始時に、オープニング曲が演奏さ れるようになった。これが今日まで長らく親しまれているNHKのスポーツテーマ、古関裕而 作曲の「スポーツ・ショー行進曲」である。実はこの曲、元はというと、46年に放送された 「空の劇場」の番組中で使用していた曲をマーチにアレンジし直したものなのだとか。この 曲が日本中の茶の間に流れ始めてから既にもう半世紀以上経つが、放送中に流れる曲は90年 代後半から、それまでのブラスセクションを強調したアレンジから、ストリングスの軽やか なフルオーケストラに変わった。 因みに、テレビ東京を除く民放キー4局のスポーツテーマは、日本テレビが黛敏郎作曲の 「スポーツ行進曲」、TBSが“レイモンド”こと服部逸郎作曲「行進曲・コバルトの空」、 フジテレビが、開局当初はE.E.マッコイ作曲「Lights Out」、80年代半ばからは新田一郎作 曲「フジテレビ・スポーツテーマ」、テレビ朝日は、旧NET(日本教育テレビ)時代がレイモ ンド服部作曲「行進曲・スポーツマン」、77年4月に社名変更後は神津善行作曲「朝日に栄 光あれ」。 もっとも近年は、民放各局のスポーツ中継のオープニングテーマは競技ごとに違っていた り、年ごとのサイクルで差し替わっていたりで、しかもジャパニーズポップスが幅を利かせ ているとあって、自局本来のスポーツテーマは影が薄くなってしまった。尚、02年現在、プ ロ野球中継ではTBS系列の「コバルトの空」だけが、アレンジを変えつつも健在している。 再び東急−中日戦。 このシーズン、両チームのここまで12戦の対戦成績は、中日の6勝5敗1分とほぼ互角。 またペナント争いを見てみると、18節を終わって首位を行くのは巨人で、ほぼ独走状態。そ れを追って2〜4位でだんご状態の阪神、大映、阪急。この上位4球団を追ってAクラス入りを 争うのは南海、中日、阪急。そして完全に蚊帳の外に放り出されたのが最下位・大陽、とい う展開である。 中日は7月までに清水、服部、近藤、杉下の主力投手陣がシーズン当初の故障から復帰。 打線もこれに奮起するかのように復調し、18節のチーム打率は.333と実に打ちまくった。 東急も、エース・白木義一郎が怪我から復帰、打線もしばらくスタメン落ちしていた主 砲・大下弘が復調。内野陣も浜田の成長などでほぼ整ったところ。 息詰まる投手戦か、或いは豪快な打撃戦か。どちらにしても、県下のファンには楽しみ な一戦となる。 試合前日の11日、両チームが相次いで来港した。 まず朝6時過ぎ、中日が夜行列車で新潟駅に到着。県庁前の源川旅館で旅装を解いて休息 の後、午後3時から白山球場で打撃練習など、軽めの調整を行った。 そして午後7時前には東急が到着。白山公園前の西山旅館に入った。当時、現在の新潟東 映ホテル付近にあった新潟駅周辺をはじめ、白山球場、球場近くの両チームが宿泊する旅 館の近辺には、サインブックを手にしたファンが押しかけ、選手の姿を見るや否や「大下 だ!」「西沢だ!」と歓声が上がっていたという。 <“来港”とは?> さて余談だが、筆者は“来港”という言葉をこのコーナーで何回か使っているが、かつ ては新潟市に芸能人やスポーツ選手、作家、政治家など有名人の来客があることを“来港” と云った。まるで豪華客船か巨大空母か何かが新潟港にやってきたような表現だが、これ には由来がある。 実は新潟港、函館(箱館)、横浜(神奈川)、神戸(兵庫)、長崎と並んで、安政仮条約によ り開港五港のひとつとして、幕末から海外船の入港が許された港のひとつなのである。 しかし現在の新潟市、他の4都市と比べると今ひとつ影が薄く、しかも異国情緒もまるで 感じられず、一種没個性的な都市になってしまっていることが残念でならない(明治初期か ら戦前までの建造物も残念なことに、市内には余り残っていない)。観光資源も乏しく、新 しい公共施設やビル、道路などができると、そこがオープンから2週間くらいの間、当座の 観光名所になってしまう(例:NEXT21、新潟空港、新潟みなとトンネル)という程の街だ。 そのせいか否か、最近県内では“来新(らいしん)”という言葉もよく使われている。 再三脱線して恐縮だが、東急−中日戦の話に戻る。 ドラゴンズの主砲・西澤道夫内野手。現在は永久欠番となっている、背番号15。 このシーズン目下、別当薫、藤村富美男(ともに阪神)らと本塁打王争いを繰り広げていた 西澤、すらっと長身ながら実に朴訥とした人柄だったようだ。 曰く「僕には両親がいないんです(若くして死別)。サトウハチロー先生(作家、中日ドラ ゴンズ後援会長)が僕の親であり、叔父でもあり、兄なんです」と、朗らかながらもしみじ みと語った。以下、12日付(11日発行)の夕刊ニイガタのインタビュー記事より。
この西澤のインタビューの中に、翌12日のゲームのキーワードとなる事柄がいくつかあ るが、まず別当の本塁打について。 西澤がラジオで知ったという、この別当の31号アーチとは、実はプロ野球史上に残る記 録となったもの。10日、高松市立中央球場で行われた大陽−阪神13回戦で、阪神・別当薫 が29、30、31号を連発。1試合3本塁打の、当時の日本野球タイ記録をマークした。 実は、この別当の3ホーマーの快挙と全く同じシーンを翌日、新潟でも目の当たりにする ことになるのだが、無論そんなことなど、県民の誰もが予想どころか、夢にすら思いもし なかった。 西澤が試合前日に語った言葉は、この後も次々と登場する。 いよいよ試合当日。 白山球場は春以来、それまで木造だったメインスタンドを取り壊し、戦前来の懸案であ った、鉄筋コンクリート造の本格的なスタンドに改築する工事が行われてきたが、それが 完工した。例によって、前日から球場前で泊まり込みで待っていた徹夜組も含め、ファン は早朝から球場を取り巻き、午前9時の開場と同時に、早くもまっさらなメインスタンド を含め内野は八分、外野も六分の入り。炎天下の白山球場は約1万人を呑み込んで、びっ しりと白く染まり上がった。 因みに、試合当日の白山球場周辺の運営体制はというと、当日券売場は球場正面脇(川岸 町通沿い。メインスタンドは現在の白山公園トンネルの場所にあった)、一、三塁側の入場 口前、そして労働会館前広場に設けられたボックスの計4箇所。球場入口はメインスタンド が正面入口2箇所、一、三塁側が各1箇所、外野はスコアボード裏手(現在の県民会館の場 所)1箇所。便所は各スタンド両側に設けられていた。 この日の各賞は、勝利投手賞(新潟日報社)、打撃賞、打点賞(各夕刊ニイガタ社)、本塁 打賞(ハトヤベーカリー)、満塁本塁打賞(古町東宝)、サヨナラヒット賞(小林百貨店)、フ ァインプレー賞(県学用品販売、日米徽章商会)、ダブルプレー賞(新潟スポーツ社、西山運 動具店、中村靴店、阿部運動具店)、そして恒例の残念賞(川崎塗装店)など。 まず午前11時、前試合の新潟市内軟式野球選抜紅白戦が開始。 紅軍は上野(昭石)、白軍は坪田(食公)がそれぞれ先発。序盤は両者相譲らず投手戦も、後 半からじりじり攻めて4点を挙げた白軍が勝利した。イニングスコア、スターティングメ ンバーは下記の通り。
から声援が飛んでいた。 実はこの日、後楽園球場では都市対抗野球・6日目が行われており、午後3時試合開始の 準々決勝・全藤倉(東京)−新潟クラブ野球団の試合経過を、場内で放送するサービスが行 われた。当日はNHKのラジオ第二放送で中継されていたが、当時は当然、ポータブルラジオ などない。プロ野球を観ようか、それとも家に帰って都市対抗を聴こうか…と気が気では ないファンも、きっと多かったはずだ。 かくして午後3時、連合軍新潟民事部副部長・ジョーンズ少佐が、もうお馴染みとなった アメリカンスタイルで、スタンドからボールを投入。そして市制60周年を記念して、村田 新潟市長が始球式を行った。ジョーンズ少佐はスマートにボールを投げ込んだが、村田市 長は坪内の背後への、ワンバウンドの暴投だった。 プレーボールは予定より若干遅れて午後3時9分。先攻は中日。東急の先発は西澤の予想 通り、左腕の片山博。対する中日は服部受弘。 序盤から主導権を握ったのは中日だった。 初回、野口の適時二塁打で先制すると、同点に追いつかれた直後の2回には、杉山が15号ソ ロを左翼へ。4回には杉浦の14号2ラン、続く杉山の16号ソロの2者連続アーチを含む5安打 を浴びせ計3点、この回途中で片山をKOした。片山はカーブは良かったのだが、直球でカウ ントを取りに行ったところを痛打された。 2番手の吉江も、6回を7被安打で3失点と振るわなかった。この両投手の不調もいけなか ったが、捕手・鈴木の、余りに工夫のないリードもまた仇となった。 かたや中日の先発・服部は11被安打も、要所でカーブが切れて、結局東急打線を2点に抑 え込んで完投勝利。 注目された大下は3打数1安打、打点1、四球1。西澤は苦手の片山が早々に降板したもの のふるわず、4打数1安打、四球1。両チームの3番は共に、平凡な成績に終わった。 ところで5回表、中日にボーンヘッドが出た。走者一、三塁の場面で、杉浦が三塁横を抜 く痛烈な安打を放ち、一気に二塁を陥れようと一塁を大きく回ったところ、一走の野口が 二塁で止まってしまっていた。杉浦はハーフウェイのところで挟殺網に掛かってしまうが、 この間に野口を二塁から追い出し、野口がアウト。“一人だけいい子”になってしまった 杉浦の珍プレーには、場内からも笑いが漏れていた。 ところで都市対抗の方だが、場内ではラジオ中継をもとに、後楽園の場内アナ・江藤さん がゲームの合間に経過を放送していた。初回、新潟クラブが2点を先制したことを告げるア ナウンスが入ると、場内は沸き返った。しかし全藤倉が、その裏すぐに5点を返し、3回には 3点、4、5回には計4点を追加して完全なワンサイドを許すと、観客からは経過放送が入るた びに「あ〜…」と溜め息が漏れていた。試合は12−3で全藤倉が勝利。 因みにこの試合には、新潟鉄道局(現JR東日本新潟支社)から土佐内吉治内野手(50〜51・ 国鉄スワローズ)が出場している。
<杉山悟、1試合3ホーマーの快挙> この試合、6番・左翼で先発した中日・杉山悟は、15、16、17号本塁打を放ち、1試合3本 塁打の、当時の日本野球タイ記録をマークした。 この日のアーチはいずれも左翼へのソロ。2回の第一打席、片山の初球を引っ叩き、4回の 第二打席でも同じく片山から、左翼スタンド上のフェンスを越えて場外へ。5回・第三打席 の三振を挟んで、7回の第四打席に吉江から、以上3本である。 この時代の地方球場は狭いところも多く、ホームランも出やすかった。が、当時の白山 は地方球場の中でも広い部類。ラッキーゾーンを設置して公式戦を行ったこともあるほど だ(この試合でもラッキーゾーン設置)。故に杉山のこの3ホーマーは、決して球場がアシス トしたものとは云えない。 杉山には9回の第五打席、更にドラマが用意されていた。杉山はカウント2−2から、高め のボールを叩いた。ライナー性の打球はまた左翼方向へ飛び、そしてスタンドへ突き刺さ った。しかし、これは僅かに切れてファウルの判定。審判がはっきりとファウルのジェス チャーをしたのだから間違いなかったろう。この打席、杉山は結局空振り三振に倒れたも のの、しかし、この際どい一撃は、いつまでもスタンドに溜め息と余韻とを残した。 まだ成長途上で“ホームランか、三振か”を地で行っていた、この頃の杉山。結局この 試合は5打数3安打3打点で、3本塁打、2三振という結果だった。 現在の1試合最多本塁打のプロ野球記録は4本。下記の5人がマークしている。
球場の名がプロ野球史に刻まれていたことだろう。 ところでこの杉山、白山球場では滅法強かった。 48年5月の対阪神戦の前試合・対オール新潟戦では両チーム唯一のホームランを放ち、こ の年5月の対巨人戦でもこの試合でただひとり1ホーマーを放っている。 49年の杉山は結局、128試合に出場して.261、31本塁打、64打点の好成績を残した。本塁 打は約4試合で1本と、当時にしてみればかなりのペースである。ところが、白山に限っては 2試合で4本だから、新潟では実に当たりっぷりが良かった。 優しい人柄で、チームメイトやファンから「デカちゃん」のニックネームで親しまれた、 戦後の中日を支えたスラッガー、杉山悟。先のインタビュー記事で西澤が予言した通り、52 年には27本塁打をマークして本塁打王を獲得(通算1回)。また中日が日本一に輝いた54年に は、91打点を稼いで打点王(通算1回)に輝き、この両年にはベストナインにも選出されるな ど(通算2回)、球界屈指の強打者に成長していった。 晩年は国鉄、近鉄と渡り歩き、現役を退いた後は古巣の中日や、この日の対戦相手でもあ ったフライヤーズ(在任中は東映から日拓ホーム、日本ハムと変遷)などで打撃コーチを務め るなどした後、現在は故郷の豊田市で悠々自適の隠居生活を送られているそうだが、今更な がら杉山さんを“ミスター白山球場”と呼んでもいいだろうか? |
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13回戦 (中日 7勝5敗1分) 新潟市営白山野球場 10,000人 15:09開始 1時間43分
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| (1949) 05.19 G−D(白山) |
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