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1950
第一回 |
| 新発田市営球場 |
現在、新発田市内にある野球場といえば、今や高校野球などですっかり
御馴染みとなった、五十公野公園野球場である。市街地の南東のはずれ、
緑に囲まれた場所にある。92年4月から使用を開始し、熱戦の舞台に、市
民の草野球にと、県北の中心的な野球場として活躍している。
しかし、かつて新発田、県北、否、新潟県を代表する野球場があった。
新発田市営球場である。昭和25年に完成し、平成3年シーズン終了と同時
に閉鎖されるまで、いくつものドラマと歓声とを刻み込んだ、この球場。
その歴史を少し振り返ってみよう。
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現在の新発田市営球場跡地。
陸上自衛隊新発田駐屯地の仮駐車場などとなっている。
09/10/1999(以下特記ない限り同じ)
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四百余年の歴史を誇る城下町、新発田。市の中心部には緑が多く、小路
に入ると複雑に曲がりくねった道が続き、旧地名には「鉄炮町」など、か
つてここが城下町であったことを匂わせるものが残っている。
新発田市営球場は、1950(昭和25)年8月11日に完成した。
立地は、かつて新発田城の敷地となっていた場所で、1869(明治2)年には
陸軍新発田連隊が置かれた。戦後、旧軍用地は市に払い下げられ、跡地に
は市営住宅や保育所、中学校などが置かれた。新潟大学の分校も、一時期
ここにあった。
球場が造られたのは元は営前練兵所だった場所で、すぐ隣には、公園と
テニスコートもつくられた。
※こちらは現在も現役。テニスコートは、新発田市西公園(旧第一号新発田公園)の
戦没者慰霊塔の裏にある。
市は、この陸軍跡地に、更に体育館やホールなど、スポーツ・文化施設を
整備し、本格的な都市公園として整備する構想を持っていた。
しかし、市営球場が完成して1ヶ月が経った9月、県や市などはこの旧陸
軍跡地に警察予備隊(現自衛隊)を誘致することを決定、公園構想は消滅。
昭和27年には駐屯が正式に決定、28年5月には駐屯地が開かれ、球場のメ
インスタンドは駐屯地の正門と向かい合わせになり、道を挟んだ一塁側場
外は再び営前訓練所となった。
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跡地一塁側から中堅方向を望む。
外野スタンドの名残りを遺す築堤が。
後方は、県立西新発田高校。
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さて市営球場、この陸軍跡地の約5700坪の土地に作られた。
グラウンドは両翼280ft(約85.4m)、中堅380ft(約115.8m)。
メインスタンドには半地下式の放送室や記者席、吊し式のバックネット、
グラウンドには排水設備も整えられ、スタンドの段数は白山球場より6段
多い13段。当時の設計では何と3万5千人(実際は1万人弱がせいぜい)とい
う、県下随一、日本海側で見ても例のない、充実した設備を誇ったスタジ
アム。メインスタンド正面には市章・五階菱と「SHIBATA
STADIUM」の文
字が掲げられ、その威容を一層引き立てていた。
当時、これだけの球場を建設するには、それなりの紆余曲折があった。
建設が決まった昭和24年秋当時、市の職員の給料は半額しか出なかったと
いう。新発田は22年1月に市制を施行したが、その一方で台所事情は非常
に苦しかったことが窺える。そんな苦しい財政状況を覚悟で、10月7日、
野球場の建設は市の全員協議会で決定された。大蔵省から土地の払い下げ
を受けることも決まり、早速整地が始められた。
新発田市野球連盟は翌25年3月上旬、野球場の建設に協力することを決
め、近勇次氏を会長に後援会を結成。4月からは街頭募金を行ったり、市
内各戸を訪問して一口50円の貸借募金を募ったりして建設資金を調達。
柿落としを記念して開催が決定したセ・リーグ公式戦の誘致も、野球連盟
が中心となって行ったもの。市が財政難でもあり、このバックアップは大
きかった。6月半ば、メインスタンドの工事が建設費の起債認可が下りず
に一時頓挫したときも、この調達金がピンチを救ったという。
スコアボードも寄付で賄った。新潟日報社が建設費15万円を負担する形
で寄付。鉄筋コンクリート製、幅約18m。真新しいカウントランプは、球
場に彩りを添えた。
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右翼側の築堤。
ここがかつて野球場であったことを思い起こさせる、
唯一の証拠物件が、この両翼の築堤だ。
春にはこの桜並木が、花を美しく咲かせ、そして美しく散る。
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そして8月、新発田市営球場は遂に完成を迎えた。
新発田市では5日から球場完成祝賀商工まつりを開催。球場完成を記念して
ミスシバタ(現在のミスあやめ花嫁人形の前身)も選出。最終選考に残った
7名のお嬢さんは「ミスシバタ・ラッキーセブン」として、揃いの真っ白な
ワンピース姿で、紅白幕で飾ったトラックの荷台に乗り込んで市内をパレ
ードした。
11日には、市営球場の竣工式が華々しく行われ、我が町のスタジアムの
門出を祝った。13日にはセ・リーグ公式戦・国鉄−西日本、巨人−阪神の
2試合を開催。約2万人を集め、大盛況のうちに熱戦を展開した。
しかしながら、いいことはそこまで。翌9月、市営球場建設の余波をもろ
に受けた市の決算は大赤字を計上。市議会は紛糾を極めたという。
だが、野球連盟は翌年以降、積極的にプロ・アマの誘致を進めて、また
も窮地を救う。市営球場の初期は、毎年ノンプロ野球が来訪するのが恒例
行事であった。1952(昭和27)年8月23日のパ・リーグ公式戦・毎日−東急
など、二軍戦を中心にプロ野球も開催。1964(昭和39)年の新潟国体では、
準硬式一般の部の試合会場に。天皇・皇后両陛下も来訪された。
また、高校野球の試合会場としても定着。国体直後に襲った新潟地震で
も大きな被害はなく、夏の県予選が、この年初めて夏の高校野球で使用さ
れる予定だった新潟・鳥屋野球場が、スタンドの一部が崩壊した影響で使
用できなくなったために、主会場の代役を務めたのはここ。
毎年、春の北信越県予選では、球場の外周に植えられた桜並木が満開の
花を咲かせ、そよ風が吹くと花吹雪を散らしてスタンドを美しく彩った。
また5月に入ると、新緑の葉桜がそよぐ中で、すがすがしい雰囲気で観戦を
楽しめるなど、街なかで四季を伝えるような、そんな野球場だった。
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右翼場外に建てられた、国有地を示す立て看板。
99年7月、新発田城内の土地と交換で、市から国に移管した。
00年4月現在、この箇所は伐採と整地が終わり、更地になっている。
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しかし、老朽化と共にグラウンドの排水が悪くなり、雨が降るとグラウ
ンドはぐちゃぐちゃ。掃けきれなくなった雨水が、ダッグアウトのみなら
ず、記録員室や放送室をも水浸しにしてしまうありさま。スタンドも老朽
化が進み、かつては県下で最も評判の良かった球場も、いつしか時代の遺
物と化してしまった。
昭和61年度から、市は防衛庁から防衛施設周辺野外運動場整備事業の認
定を受け、新市営球場の建設に着手。こうして平成4年には五十公野公園
野球場が完成し、新発田市営球場は前年度の平成3年秋を最後にその役目を
終え、閉鎖された。
閉鎖後も球場の建物は残ったが、その後新発田城・駐屯地周辺に市有地
と国有地が混在していることが課題となり、平成8年9月に旧市営球場の撤
去が正式決定。翌春には遂に更地となった。
11年7月には、新発田城の敷地の一部と交換で、50年ぶりに再び国有地
となった球場跡地。メインスタンド付近は、駐屯地の仮駐車場などに充て
られた。
それから暫くの間、かつての名残りは残った。外野スタンドは、フェン
スこそ撤去されたものの、築堤は残ったままにされ、外野外周の桜並木も
健在で、市民の目を半世紀に渡って楽しませ続けた。
しかし、球場が完成してから50年を経、西暦も2000年に入った12年春、
この桜並木が御役御免となる日がやってきた。まず3月までにもと右翼側
の築堤が撤去、齢半世紀を過ぎた桜の木々たちも伐採された。
そして4月15日、地元の西園町三丁目町内会主催のお別れ観桜会が行われ
た。この観桜会には市民ら約100人が集まり、三分咲きの桜の下で、地元
の安兵衛太鼓、隣接する陸上自衛隊新発田駐屯地の音楽隊の演奏、野点て
などが行われ、半世紀にわたって市民を見つめてきた桜並木に別れを惜し
んだ。間もなく桜並木の伐採と築堤の撤去が行われ、跡地には駐屯地の施
設が建設される。
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2000年春。遂にこれが最後の桜となった。
もと中堅バックスクリーン付近より、もと左翼席の築堤を望む。
この前日には観桜会が行われ、地元住民らが別れを惜しんだ。
04/16/2000
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