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| 1951 | |||||||||||||||||||||||||||||||
| 中日球場、真夏の悲劇 | |||||||||||||||||||||||||||||||
| 1951(昭和26)年8月19日(日)、球界稀有の大惨事が起こってしまった。 「中日球場火災」である。 現在も名古屋市中川区露橋二丁目にある、ナゴヤ球場。かつては「中日 スタヂアム」という名前だったので、年配の方にはこの名前の方が、或い は「中日球場」と言った方がピンと来るかもしれない。 球場完成までの流れを追うと、戦後まもなく、プロ球界では米大リー グを手本としたフランチャイズ制の導入が話題になった時期があった。 中部日本新聞社(現中日)と中日球団関係者は、東京・大阪のチームに遅 れを取るまいと、専用球場の計画に乗り出した。 かくして1948(昭和23)年10月17日、市の中心部から少し離れた、名古屋 市中川区八島町(当時)で、中日スタヂアムが起工された。今でこそ住宅 地だが、当時はまだ田んぼの真ん中。戦後の物資不足下ということもあ り、スタンドは木材で造られた。昼夜兼行の突貫工事を進めた結果、僅 か2ヶ月足らずでほぼ完成。12月2日「第12回日本野球オールスター東西 対抗」で柿落とし。翌49年1月3日には開場式を執り行い、4月2日の中日 −南海戦で公式戦に初お目見えした。 しかし、木造ゆえボヤが絶えない。火のついたままのタバコが無造作 にポイポイと投げ捨てられたりする為、ボヤはしょっちゅう発生した。 スタンドには防火用にバケツとほうきが置かれ、火災に対する備えがし てあった。 とはいえ、プロ野球人気はますます過熱。特に中日−巨人戦ともなる と、観客が殺到して身動きできないほどにまでなるありさま。 50年にはスタンドを増設し、約3万5千人を収容できるようになったが、 それでもまだ木造。もし火事が起こったら…と、恐れずにはいられなか ったはずだ。 そして、その恐れは遂に、最悪の形で現実となってしまった。 時は1951年8月19日(日)、中日スタヂアムでは名古屋−巨人19回戦が行 われていた。スタンドは人気の巨人戦、しかも日曜日とあって、朝から ファンが詰めかけ、満員に膨れ上がっていた。 午後3時55分頃。試合は3回裏、中日の攻撃。守る巨人、マウンドには 別所毅彦。バッターボックスには中日の主砲・西沢道夫。スター同志の 対決に、場内が盛り上がりを見せ始めた、その時…。 「火事だー、火事だぞーっ!!」と怒鳴り声が上がった。ネット裏の正 面スタンド、中央指定席の上段付近からである。そして、スタンドから は白い煙が上がり始めた。正面スタンドの客は騒然となって立ち上がっ た。この日まで、名古屋は連日晴天。スタンドを構成する木材は乾きき って、また更に悪いことに強風も吹いていたため火はこの風にあおられ て、スタンドを舐めるように燃え拡がってゆく。ダッグアウトにいた、 この試合先発の中日・杉下茂が騒ぎを聞いてグラウンドに出て、スタン ドを見渡した瞬間「もうダメだ」と観念した程に燃え拡がっていた。 スタンドは、逃げ惑う観客で大混乱を極めた。 雪崩を打つように逃げ出したものの、木造で足場が悪い上に、将棋倒し になって押し倒されたり、折り重なって倒れ込んだり。 名古屋市中川消防署からポンプ2台が出て消火にあたったものの、球場 付近は水利が悪く、とても追い付かない。その間、火はどんどん燃え拡 がり、遂に外野スタンドにまで達した。逃げ惑う観客は、機転を利かせ た中日・巨人両チーム選手らの誘導でグラウンドに下りたり、球場外に 出たりするなどして難を逃れたが、この間も先を争って押し合いへしあ いの混乱は止まない。子が親を呼び続け、また親も子の名を呼び続ける 中、子供やお年寄りが人垣の下敷きになったり、グラウンドに下りた観 客の中には内外野スタンド間の通路に殺到するなどして、遂に全く収拾 のつかない事態に。観客の中にはこの混乱に揉まれて服がボロボロにな り、財布や手回り品を失くしてしまう人も数多くいたという。しかし、 無傷で帰れた人はまだ運が良かった方だ。 この火災で、中日スタヂアムは内野スタンドを、土盛り部分を残して 全焼。この他正面スタンド脇の球場事務所、熊谷組の作業所、自転車置 場など、合わせて計670坪を焼き、他にも周辺の民家4戸、工場3棟も全 焼。死者3名、重傷者68名、軽傷者266名を出して、午後5時40分、よう やく鎮火した。出火原因はタバコの火の不始末。火が消えていない吸い 殻の火種が、床板の隙間から落ちて溜まった紙くずなどに引火したもの だった。結局この日の試合は、この火災の影響で続行不能となり、ノー ゲーム。球場が災害に見舞われてのノーゲームは、これが史上初のこと となってしまった。 現在では考えられない大惨事。「中日球場は再起不能」とも言われ、 名古屋ドラゴンズはシーズンの残りのホームゲームを、かつて本拠地に していた鳴海球場や、刈谷、浜松など名古屋近辺の球場、或いは神奈川 の茅ヶ崎などで消化し、結局この年は優勝した巨人に13ゲーム差を付け られて、2位でシーズンを終えた。 しかし、無惨に焼け落ちた中日スタヂアムは、見事に甦る。 大惨事から3ヶ月経った11月15日、鉄筋コンクリート造、3万人収容の 新球場として再建工事が着手され、5ヶ月後に見事完成した。翌52年4月 5日、名古屋−巨人1回戦で開場式。奇しくも、あの火災のときと同じカ ードである。先発も全く同じ、杉下と別所。関係者が顔を合わせたのが 午後3時58分。そして、打席には西沢が…。亡き人への弔いか、あるい は門出の手向けか。 その後、53年に8基の照明塔を備えたナイター設備が完成。54年には 中日が初のリーグ優勝、そして初の日本一に輝いた。それから20年後の 74年、巨人のV10を遂に阻止して、2度目のリーグ優勝を飾る。 しかし中日スタヂアムはこの間、一度危機を迎えていた。 運営会社が、不動産業など多角化経営に乗り出したものの頓挫し、73年 5月に経営が行き詰まり、遂に倒産。破産管財人が付いて営業は続けられ たものの、球場設備の補修・管理が行き届かず、その後の球場の営業が 危ぶまれていた。中京財界では、72年を最後に廃業した元ロッテの本拠 地・東京スタジアムの二の舞を恐れ「このままでは市民のために良くな い。中日球場が人手に渡ってしまう恐れもある」として、中部日本放送 (CBC)、東海銀行、中部電力、東邦瓦斯、名古屋鉄道、松坂屋、トヨタ 自動車工業、中日新聞社など、東海地方に本拠を構える約20社が出資し て、75年秋に新会社「株式会社ナゴヤ球場」を設立。この際、球場も同 時に「ナゴヤ球場」と改称した。 こうして危機を逃れたナゴヤ球場では、熱戦譜が刻々と刻まれていっ た。82年に中日がリーグ優勝。87年8月9日には、一軍公式戦初登板初先 発の高卒新人サウスポー・近藤真一(中日)が、巨人を相手にノーヒット ノーランを達成。翌88年10月7日、中日がリーグ優勝を地元ナゴヤで飾っ たその瞬間、グラウンドに観客が大挙して雪崩れ込むという大フィーバ ー。その年、西武との日本シリーズの第1戦で、清原和博(当時西武、現 巨人)が、左翼場外に飛び出す大アーチを架けた。 ナゴヤに改称してからはパ・リーグの開催も増え、近鉄が年2〜3回公式 戦を行うようになった。 時は平成に移り、1990(平成2)年のこと、ナゴヤ球場はまたも火災に 襲われかける。9月11日(火)午後5時56分頃、中日−大洋戦の試合前だっ た。大洋のバッティング練習が終了し、スターティングメンバーがアナ ウンスされる直前のこと。外野スタンドの右中間付近、スコアボード横 の照明塔下部付近にある、ごみ集積場から火が出たのだ。一時は火柱が 10m近くにわたって上がり、スタンドから炎が垣間見え、黒煙がグラウ ンドに立ち込めた。このため、外野スタンドは一時騒然となり、球場側 は外野フェンスにあるドアを開放して、場内アナウンスなどで観客をグ ラウンドに誘導した。付近にいた約4,000人の観客のうち約1,000人が グラウンドに下りて、火煙を見守った。火は現場に掛け付けた球場職員 や消防隊員によって消火が行われ、6時11分に鎮火。集積場に置いてあ った竹製のくずかご50個のうち約30個が焼失、集積場の扉や屋根も焼け た。普段は火の気がないことから、出火原因はタバコの火の不始末では ないかと見られている。 幸い、迅速な消火と手際の良い避難誘導で事無きを得、通常の6時20 分開始が23分遅れただけで、試合は予定通り行われた。 39年前の、あの悲惨な大火災の教訓が生きていたからこそ、被害が最 小限で済んだのかも知れない。 因みにこの日の試合のスコアは下記の通り。 ナゴヤ球場 27,000人 18:43開始 3時間4分
そして1996年、いくつもの熱戦と歓声、そして時には大記録や騒動の 舞台ともなったナゴヤ球場は、公式戦ラストゲームを迎えた。それが、 あの中日−巨人25回戦、俗に言う「10・6」。試合は5−2で巨人が快勝 し、リーグ優勝を飾った。試合終了後のセレモニーで、惜しくもリーグ 優勝を逃した中日・星野仙一監督は「来年ドームで出直します」とファ ンに誓い、ナゴヤ球場は公式戦開催球場としての幕を下ろした。 翌97年から、中日ドラゴンズはナゴヤドームにフランチャイズを移転。 第一線を退いたナゴヤ球場は現在、中日のファームの本拠地及び練習場 として、またオフシーズンはイベント会場などとして、静かに時を過ご している。 |
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| (1951) 09.04 G−W(白山),05(栃鉄悠久山) |
<--> | (1952) 05.03 W−D(高田),04(栃鉄悠久山),05(白山.ダブル) |