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1952
新潟県出身のプロ野球選手たち
Ver.1.3
12/13/2000

 ご存知の通り、新潟県は雪国で、野球の強化面の立ち遅れがかねて
から指摘されている。00年夏、遂に新潟県勢の甲子園での通産勝利数
(春・夏の合計)は47都道府県中、最下位に転落した。
 それでも、プロ選手としての素質を備えたプレイヤーは数多く存在
しているという。00年現在、新潟県出身の現役プロ野球選手は、実に
6人を数える。但し、全くの純県産は、加藤健捕手(新発田農−巨人・
99D3)だけで、他は中央上位球界に進んだ後に頭角を現したり、一度
県外に出ていたりする者がほとんど。

 では、歴代の県人選手たちは全部でどれだけいるのかと数えてみる
と、全国的に見れば、やはりそんなに大勢いるというわけでもない。
それでも中にはタイトルホルダーに輝いたり、大記録を達成したり、
或いは、現役時代は今一つだったものの、裏方としていい味を出し続
けていたりと、けっこう活躍していることにも気付かされる。また、
雪国であることや、県内には公立校が多く、専用グラウンドがある学
校がごく僅かであるという背景もあるのか、野手が少なく、投手ばか
りが異常に多い、ということも解る。
 そこで、そんな新潟県出身の選手たちの横顔を追ってみよう。

氏 名
(黄色は現役)

出身、生没、投打

所属(太字はドラフト順位)
生涯通算成績、主なタイトル、エピソード等
※現役選手は2000年シーズン終了時点での通算成績

青島 健太 新潟市、1958.4.7、右右

春日部高→慶大→東芝→
ヤクルト(85−89)
96試合・.183(82-15)、HR2、RBI5

埼玉県草加市の出身だが、幼少期、新潟市に在住歴あり。
慶大時代には3試合連続HR、シーズン6HRをマーク。
プロ1年目、85.5.11・対阪神戦で代打出場、史上20人目とな
るプロ初打席初本塁打を記録。しかし、一軍ではほとんど活
躍できなかった。引退後はスポーツキャスターに転身、幅広
く活躍している。
猪俣  隆 長岡市、64.6.27、左左

堀越高→法大→
阪神(87D1−96)→中日(97−98)
191試合・43勝63敗3S、3.68

中学3年次(長岡東中)は県大会ベスト4。高校時は東京の堀越
学園高に野球留学。法大時代、新人戦・対明大戦で無安打無
得点を達成するなど、4年間で通算20勝を挙げた。
プロ入り時には阿波野秀幸(亜大、近鉄−巨人−横浜)、西崎
幸広(愛工大、日本ハム−西武)らと並んで「大学球界のエー
ス」と謳われたひとり。1年目から期待されたが、10年間の
プロ生活は平凡な成績のままで終わってしまった。
プロ入り以来79打席連続無安打(セ・リーグ記録)という珍記
録も持つ。
今井雄太郎 長岡市、49.8.4、右右

中越高→新潟鉄道管理局→
阪急・オリックス(71D2−90)→ダイエー(91)
429試合・130勝112敗10S、4.28
*最多勝(81,84)、防御率1位(84)


プロ入り最初の5年間はわずか2勝。しかし76年、フォーム改
造で頭角を現す。繊細で慎重な性格の持ち主で、それを克服
しようと、登板前に上田利治監督ら首脳陣のアイディアで、
ビールをあおってマウンドへ。その試合で見事好投した、と
いうエピソードはあまりにも有名。以来“酒仙投手”の異名
を頂戴する。
78年8月31日、対ロッテ戦(仙台)で、史上14人目の完全試合
を達成。“主戦投手”として頭角を現したこの年は、リーグ
優勝も果たし、以後、長きに渡って先発の一角を務め、晩年
は中継ぎや抑えも務めながら42歳まで粘り強く投げ続け、現
役21年間で通算130勝をマークした。
現在は夫人の実家がある佐賀市に移住、九州・関西地区を
中心に解説者、タレントとして活躍中。
大滝 信孝 −、−、−

村上高→
アトムズ
 
掛布 雅之 千葉県(三条市生まれ)、55.5.9、右左

習志野高→
阪神(74D6−88)
1625試合・
.292(5673-1656)、HR349、RBI1019
*本塁打王(79,82,84)、打点王(82)


ご存知の通り千葉県出身だが、出生地は三条市。
実は掛布氏の母が三条市出身で、臨月前後に帰省して氏を産
んだ、という経緯がある。
現役時代の活躍はご存知の通り。CMでも人気者だった。
笠原 敦郎 上越市、53.2.8

直江津工→東亜石油→
大洋(75−79)
一軍出場なし

5年間の現役時代(背番号62)には、実績はほとんどなし。
主に打撃投手として、長年にわたって裏方を務めた。
ファーム暮らしでも、実戦登板を生き甲斐にしていただけ
あって「陰の男でも、試合で選手が活躍できるのならば、
むしろ誇りに思う」とは、何とも泣かせる台詞。
加藤  健 北蒲原郡聖籠町、81.3.23、右右

新発田農→
巨人(99D3−)
3試合・.000(3-0)、HR0、RBI0

高校時代は1年次からレギュラーに定着、主軸を打った。
97年北信越秋季大会・決勝戦(対敦賀気比)では2打席連続本
塁打をマーク。98年は春・夏2季連続甲子園出場を果たすが
いずれもに初戦敗退。しかし、強肩とインサイドワークの
センスが認められ、巨人から3位指名を受ける。
将来の正捕手候補として嘱望されており、2年目の00年は怪
我もあったが二軍での出場機会も増え、リーグ優勝決定後に
初の一軍昇格を果たし、3試合に出場した。
川村 一明 中蒲原郡村松町、62.5.4、右−

松商学園高→プリンスホテル→
西武(84D4−89)→ヤクルト(90−91)
61試合・7勝5敗1S、5.09

村松町出身だが、松商学園へ留学。79・80年と2年連続で
甲子園の土を踏む。高知商の中西清起(のちに阪神)と投
げ合う投手戦を演じたこともある。
高卒時、阪急から1位指名を受けるも拒否して就職。
西武入団後は“肩がすぐ作れる”ということもあって、主
に中継ぎとして起用され、1年目の8月には初勝利をマーク
し、2年目には3勝をマーク。リリーフとして嘱望されてい
たが、86年からは右肩などを傷め、結果が残せず。
引退後は郷里で家業の石材業に携わる。
栗山  聡 新発田市(新潟市生まれ)、74.6.15、右右

新発田中央高→東農大生産学部→
オリックス(97D4−)
24試合・1勝3敗0S、7.33

北海道網走市にある東農大生産学部へ進み、4年春のリーグ
戦を5試合すべて完封して優勝に貢献。同大学出身者初のプ
ロ選手となった。
00年9月7日、対西武戦(GS神戸)で、9回裏・二死満塁から
代打で出た投手・松坂大輔にプロ初安打(中前2点適時打)を
許す。DH制以後、パの投手が安打を打ったのは史上4人目で、
2打点は初。この珍記録をお膳立てしてしまった。
黒坂 幸夫 糸魚川市、55.10.8、左左

糸魚川商工→鷺宮製作所→
ヤクルト(77D4−82)
50試合・0勝1敗0S、5.22

左腕から繰り出されるカーブを武器に、糸商を2年連続で
夏の甲子園に導く。73年オフのドラフトで巨人に2位指名
されるが、先輩・関本らに野菜嫌いを指摘され、「社会人
で力を積んでからでも遅くない」との進言を受け、指名拒
否して鷺宮製作所に就職。社会人で制球力を付け、自信を
持ってプロ入り。背番号は金田の34。これでも解るように
期待は大きかったが、球威不足が祟って、二軍で好成績を
挙げても、一軍ではリリーフでも結果が残せなかった。
引退後は鳥取に移住し、鳥取ヤクルト販売の社長を務めて
いる。
小林 幹英 新潟市、74.1.29、右右

新潟明訓高→専大→プリンスホテル→
広島(98D4−)
114試合・16勝16敗28S、4.29

大学時代はチームの一部昇格に貢献、卒業時にはプロから指
名オファーがあるも、結局指名なく、就職。
プロ1年目は9勝18Sをマークして、新人王(中日・川上が獲
得)に漏れた高橋(巨)、坪井(神)らと共に特別表彰を受ける。
杉本 定介 新潟市、−、−

新潟高→
巨人(52−54)
一軍出場なし

新潟高時代は競技経験が無く、野球は草野球程度だけ。
叔父と就職の面接を受けに上京した51年秋、たまたま立ち
寄った後楽園球場で行われていた、巨人の入団テストに
着の身着のままで飛び入り参加。遠投110mを投げて高評価
を得て、見事合格。しかし、一軍では打撃投手を務めた程
度で、実績はほとんどなかった。
引退後は新潟クラブでプレー。リトルリーグの指導者も務
めたことがある。現在は音響機器関連の会社を経営。
鈴木  実 新潟市、29.10.15、

新潟中→全新潟→鐘淵化学→
巨人(53−54)
16試合・1勝0敗、1.90

仕事の傍ら、新潟クラブでプレーしていたが、鐘淵化学に
スカウトされる。そこで岡泰蔵監督に認められて、水原茂
監督に紹介され、巨人に入団。
53年の新潟シリーズ(対広島)で地元凱旋を果たすが、結局
登板機会はなかった。通算成績も僅か1勝にとどまった。
関  守雄  

柏崎商→
毎日
 

引退後はレストランのマネジャーをする傍ら、毎日オリオ
ンズOB会の世話役も務めるなどしていたが、若くしてこの
世を去った。
関本四十四 糸魚川市、49.5.1、右右

糸魚川商工→
巨人(68D10−75)→太平洋(76)→大洋(77−78)
166試合・27勝41敗1S、3.14
*新人王(71)、防御率1位(74)


3年間のファーム暮らしを経て、4年目の71年に一軍に定着。
この年、10勝11敗をマークして新人王に輝く。
74年には防御率2.28の好成績をマークしてタイトルを獲得
した。一軍実働8年間で、日本一・最下位・オールスター出
場に2度のトレードを経験。新潟県出身選手としては、新人
王と投手部門タイトルホルダーの、それぞれ第一号である。
引退後は巨人などの投手コーチを経て、解説者に。
高頭 時夫 −、33.5.4、−

長岡商−
阪急(52−57)
7試合・0勝0敗、8.25

高校時代は陸上選手としても鳴らしたが、プロでは大成でき
なかった。
中野 晴彦 豊栄市、57.2.28、右右

新発田農→
日本ハム(75D6−82)※78=米留学
一軍出場なし

高卒時は警察官志望で、県警の一次試験にも合格していたが
強肩と守備力が日本ハムのスカウト・瓜生勝の目にとまり、
6位指名を受けてプロの道へ。
大沢啓二監督に見込まれ、入団4年目には渡米し、ヤンキース
傘下のマイナーで1年間武者修業するなど、大いに嘱望されて
いたが、手の故障などもあって、遂に大成できず。
「晩年は二軍慣れしてしまった」とは御本人。引退後は東京
都内の不動産会社に勤務。
中谷  剛

糸魚川高→
大毎(65)
 
中山 信博 岩船郡−、58.1.13

関東一高→
日本ハム(76D5−80)
一軍出場なし

長谷川 武 −、38.6.6

長岡商→新潟交通→
大毎(60−62)
3試合・0勝0敗、9.00

社会人時代に無安打無得点試合をマーク。
馬場 正平 三条市、38.1.23−99.1.31、右右

三条実(中退)→
巨人(55−59)→大洋(60)
3試合・0勝1敗、1.29

ご存知、後のプロレスラー、ジャイアント馬場。
一軍での1敗は、杉下茂の200勝達成試合(57年10月23日、対
中日戦・後楽園)でのもの。
そもそも、プロレス転向のきっかけは怪我。60年に大洋に移
籍したが、春季キャンプ中に風呂場で転んで左手の筋を切っ
てしまった。これで野球を断念。その後、力道山の誘いを受
けてプロレスの道へ。以降の功績は説明するまでもない。
平野 克明 −、41.12.14、

柏崎工→電気化学→
大洋(64)
2試合・0勝0敗、15.00

広瀬 明彦 新潟市、59.5.25、左左

新潟東工→河合楽器→
中日(81−84)
5試合・0勝0敗0S、3.00

本格派の左腕といわれていたが、制球難が祟って、一軍に
定着することが出来なかった。
藤岡 康男 −、−、左左

三条商→国士舘大(中退)→
大洋(78−79)
一軍出場なし

高校時代は左腕エースで名を馳せ、大学を中退してのプロ入
り。しかし、一軍での登板はなかった。
古川 利行 新潟市、63.9.24、左左

北越商→日本鋼管→
中日(85D3−87)
22試合・0勝0敗0S、4.50

小柄ながら、カーブを持ち球に新潟県内でも無敵といわれた
サウスポー。しかし、在学中に北越商が出場停止処分を受け
たこともあり、高校時代はその実力を存分に発揮することが
出来なかった。だが、その評価は上位球界でも高く、卒業時
には中日から6位指名を受けた。が、これを拒否してNKKへ。
84年には都市対抗でチームを準優勝に導き、再び中日から
3位で指名を受け、プロ入り。即戦力ということで、1年目か
ら主に中継ぎで活躍したが、以後は怪我に泣かされた。
僅か3年間でプロ生活にピリオドを打ち、現在は新潟市内で
少年野球の指導などに汗を流す。
星野 順治 西蒲原郡分水町(東京生まれ)、74. 6.18、左左

新潟商→NKK→
ダイエー(98D4−)
42試合・13勝14敗0S、4.01

高卒時には、中日から指名オファーがあったが、NKKに就職。
入社3年目の95年から2年間は、右肩の故障に悩まされるも、
97年に見事復活。社会人通算17勝をマークし、これが認めら
れてダイエーから4位指名を受けた。
2年目の99年には、課題だったフォームも固まって大ブレイ
ク。特に、5月2日の対西武戦(西武ド)ではプロ初先発初完封
を果たし、一躍ローテーションに定着。10勝をマークし、リ
ーグ優勝の立役者となる。中日との日本シリーズ第4戦でも
好投し、日本一にも貢献した。しかし00年は、シーズン前に
潰したマメの回復が長引き、登板回数は僅か。
本間  忠 新津市、77.8.5、右右

日本文理高→日本文理大(中退)→野田サンダーズ→
ヤクルト(00D6−)
29試合・3勝2敗0S、3.46

故障で大学中退後、家業の建築業を手伝いながら、地元のク
ラブチーム「ケンタッキーサンダーズ」(現野田)でプレーを
再開。前年の98年オフには巨人のテストに合格も、指名され
なかった。99年オフのプロ入り時は「元大工」と話題に。
ドラフト前後の表情が「クイズ赤恥青恥」(テレ東系)で全国
放映された。ルーキーイヤーの00年は、シーズン中盤から中
継ぎ陣に加わり、3勝をマークした。
三輪  悟 新潟市、45.9.18、右右

新潟市工→新潟市水道局→東光商事→電電信越→
西鉄・太平洋(70D2−74)→広島(75−80)
335試合・17勝40敗2S、3.48

社会人時代は電気化学、電電信越などの補強選手として都市
対抗野球に出場し、注目を集める。因みに社会人時代、高卒
後最初に就職した市水道局では、1年目に新潟地震が発生し、
震災直後から現場で水道管の復旧作業に携わったというエピ
ソードがある。
入団1年目にいきなり、西鉄が「黒い霧事件」の影響をまとも
に受け、主力投手がごっそり抜けるという不運を味わうが、
東尾修のプロ初勝利をリリーフするなど、70年前半は「救世
主」とも謳われる活躍ぶりで、シーズン通算で7勝をマーク。
この年は、西鉄からただ一人オールスターにも出場した。
ライオンズの低迷期を支えた一人である。
6年目に広島移籍後は、主に中継ぎとして活躍。移籍1年目は
いわゆる“赤ヘルフィーバー”。三輪も22試合に登板して、
優勝に貢献した。
引退後は広島の広報、マネージャーなどを務めた。
吉川 和男 −、47.4.17、−

糸魚川高→
東京(66D10−67)
一軍出場なし

ドラフト制最初の年に指名を受けたが、プロ生活は僅か2年
で終えた。
吉田 篤史 新潟市(東京生まれ)、70.9.29、右右

日本文理高→ヤマハ→
ロッテ(92D1−)
208試合・23勝33敗6S、3.80

90年都市対抗で、橋戸賞・若獅子賞を獲得。
1年目には7勝をマークするが、以後数年は故障に泣かされ
る。95年、米マイナー留学後に復帰、以降は主に中継ぎと
して活躍している。
渡辺 一衛 −、24.9.9、−

高田中→大連満倶→
金星・大映(48−51)
172試合・.214(341-73)、HR3、26RBI

記録上では、この人が新潟県出身者のプロ野球選手第一号
である、とされている。元々捕手だったが、後に内野手に
転向している。
渡辺  保  

新発田農→
サンケイ
 
渡辺 浩司 白根市、63.8.9、右左

新潟商→
日本ハム(82−97)
270試合・.231(675-156)、HR6、RBI69

高校卒業後はニチエーへの就職が決まっていたが、日本ハム
のテストに合格し、プロ入り。85年の二軍戦では、優勝決定
の試合でサヨナラ適時打を放つが、二軍生活が続く。
87年に初めて一軍に上がるが、以後エレベーター生活が続
く。しかし95年、白井一の故障で14年目にして二塁のレギ
ュラーを獲得。だが程なく、金子誠ら若手の台頭で、97年
を最後に引退。以後、二軍打撃コーチなどを担当。
実家は大郷の肉屋「鶴久」。


<Special Thanks!!>局長/新潟県出身の有名人!!
※敬称略




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(1952)
08.23 O−F(新発田)
<--> (1953)
05.12 S−T(悠久山),13(白山)


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