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| はじめに Ver.3 01/23/2002 |
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| 新潟県内ではじめてプロ野球公式戦が開催されたのは、戦後少しずつ落ち付きはじめた頃、 1948(昭和23)年5月13日のことだった。もうかれこれ半世紀以上も前の話である。 闘いの舞台となったのは、新潟市営白山野球場。現在の新潟市一番堀通町、白山公園南側、 新潟県民会館付近にあった球場だ。 対戦カードは大阪タイガース(既にこの頃、通称は「阪神」)−中日ドラゴンズ。白山球場 の後、長野へと転戦する「信越シリーズ」の初戦として開催された。プロ野球の地方遠征が 本格的に始まったのは、この年のことだった。 戦前・戦後にも、新潟でプロ野球は何度か行われている。 しかしこれらは公式戦ではなく、昭和11年秋〜13年秋までの二シーズン制で公式戦が行わ れていた頃に、春先や夏場のシーズン間に地方を転戦してエキシビジョン的に試合をしてい たもの、つまりはいわばオープン戦であり、「日本プロ野球記録大全集(第一期)」(ベース ボール・マガジン社刊)には、公式戦の試合記録としては全く残っていない。 因みに、その試合結果だけ掲載しておくと(判明分のみ)、
戦前は、巨人とライオン(1953年大洋と合併、後に松竹ロビンスとなる。尚、この当時の 大洋は、現横浜とは直接は無関係)が、多く訪れている。 戦後46年8月の阪神−セネタース(現日本ハムファイターズ、戦前の東京セネタースは後に 合併・改称を繰り返し、1943年を最後に解散)は、北海道遠征の帰途にオープン戦として行わ れた。公式戦が復活した46年シーズンは、日本野球連盟は満蒙同胞援護会に協力し、入場料 収入の一部を海外同胞援護資金に協力することになっていた。新潟での試合は、この義援金 を募るための、つまり今風に云うところのチャリティーゲームだった。 ※尚、新潟県内で出版されている一部の文献では、この46年8月に行われた阪神−セネ タースが“新潟県内で初めてのプロ野球公式戦”となっているものが数多い。 しかし新潟県立図書館、野球体育博物館(東京ドーム内)図書室などに所蔵されている 文献等に基づいて調査した結果、正しくは上記の通りであることが判明している。 さて、初めてのプロ野球公式戦を告げる記事が、48年4月11日の新潟日報に載った。 「(略)従来公式試合が東京、名古屋、関西の各球場で行れて来た慣例を破り、今年から新 たに各球団が積極的に進出、広く地方フアンの渇望に応えると共に真にプロらしい“見せる 野球”の確率普及に乗り出すこととなり(略)」、日本野球連盟と各地方新聞社との間で協議 を進め、スケジュールを編成した。その結果、新潟でもプロ公式戦の開催が実現することと なった。それが前述の阪神−中日戦であった。 この決定に、志賀五作・県市野球連盟会長の談。 「プロ野球公式試合が地方でも見られるようになって市民の大半を占める野球フアンは大 喜びだ。それに来県する選手団諸君にしても公式ゲームとなれば大いにハリ切って火の玉の ような烈しい戦いを進めるだろうから、野球のわかる人だったら尽きない興味と得難い刺激 や教訓を覚えるに違いない。その意味で今後ともこうした権威ある試合が引続き当地で行わ れて欲しいと思う」 ともあれ、新潟でのプロ野球熱戦譜、その第一幕が今開く。 県内でのプロ公式戦は、この阪神−中日戦をはじめに、平成8年6月の近鉄−西武2連戦まで、 全部で100数試合。その試合数は他の地方都市と比較すると決して多くはない。 が、闘いの軌跡は今も輝きを失うことなく、多くの人々の記憶に残っているはずだ。 |
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