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OB選手



長谷川 武 Takeshi Hasegawa
− 1938.6.6生
 投 手 −投−打
長岡商−新潟交通→大毎(60−62)
3試合 0勝0敗 9.00
 社会人時代にノーヒットノーランをマークしたことがある。

馬場 正平 Shohei "Giant" Baba
三条市 1938.1.23生−1999.1.31没
 投 手 右投右打
三条実(中退)→巨人(55−59)→大洋(60)
3試合 0勝1敗 1.29
 ご存知、後のプロレスラー、ジャイアント馬場。
三条市内の青果店の次男に生まれる。小学生の頃から野球好きで、三条第
一中でも野球部入りを目指すが、足が大き過ぎてスパイクがなく断念。し
かし、部の監督を務めていた教諭が「俺が用意してやる」と諭し、中1時は
美術部で、好きな絵に勤しんだ。そして中2から晴れて野球部の一員に。
 三条実業高の金工科(現三条工高・機械科。65年に三条実は工商が分離
独立したが、その際校舎は三条商が継続使用して開校、三条工は校舎を移
転新築して開校)に進み、2年時に練習試合で17奪三振をマーク。これが
巨人スカウトの目にとまり、54年、2年時の冬に高校を中退して、プロの
道に進む。
 二軍では2年目の56年に12勝、57年にも13勝をマークして優秀投手に選
ばれるなど嘱望されたものの、一軍での登板は3試合、7イニングにとどま
った。公式戦で唯一責任投手となった1敗とは、杉下茂の200勝達成試合
(57年10月23日、対中日戦・後楽園)でのもの。
 そもそも、プロレス転向のきっかけは病気と怪我。一時期から、脳下垂
体が異常肥大して視神経を圧迫する奇病に苛まされ、視力が低下。更に、
60年に大洋に移籍したものの、春季キャンプ中に風呂場で転倒し、左手の
筋を切ってしまった。結局これらが元で、シーズン入りを待たずに野球を
断念することになってしまった。
 その後、力道山を頼ってプロレスの道に進み、野球引退から半年後には
プロレスラーとしてデビュー。翌61年には単身渡米して武者修行。以降、
日本プロレス、そして自らが立ち上げた全日本プロレスで数々の功績を打
ち立てる。第一線を退いても尚、前座レスラーとして「生涯現役」を貫き
通して、通算5,759試合に出場し、98年12月5日の全日本プロレス・武道
館大会を最後に病床に伏せる。しかし、既に直腸のがんが肝臓に転移して
おり、1999年1月31日16時4分、肝不全のため永眠。享年六十一。

※一部メディアで、馬場氏の出身校を「三条実高(現三条商高)」と表記
 しているものがありますが、詳細は上記の通りとの事です。

平野 克明 Katsuaki Hirano
− 1941.12.14生
 投 手 −投−打
柏崎工−電気化学工業→大洋(64)
2試合 0勝0敗 15.00

広瀬 明彦 Akihiko Hirose
新潟市 1959.5.25生
 投 手 左投左打
新潟東工−河合楽器→中日(81−84)
5試合 0勝0敗0S 3.00
 本格派左腕として嘱望されるも、制球難が祟り、一軍定着はならず。

藤岡 康男 Yasuo Fujioka
−、−
 投 手 左投左打
三条商−国士舘大(中退)→大洋(78−79)
一軍出場なし
 高校時代は左腕エースで名を馳せる。大学を中退してのプロ入りも、一
軍での登板は果たせず。

古川 利行 Toshiyuki Furukawa
新潟市 1963.9.24
 投 手 左投左打
北越商−日本鋼管→中日(85D3−87)
22試合 0勝0敗0S 4.50
 小柄ながら、カーブを持ち球に県内では無敵といわれたサウスポー。
しかし、在学中に北越商(現北越高)が出場停止処分を受けたこともあり、
高校時代はその実力を存分に発揮することが出来なかった。だが、その評
価は上位球界でも高く、卒業時には中日から6位指名を受けた。が、これ
を拒否して、社会人野球のNKKに入社。
 84年には都市対抗でチームを準優勝に導き、再び中日から3位で指名を
受けてプロ入り。即戦力ということで、1年目から主に中継ぎで活躍した
が、以後は怪我に泣かされ、未勝利のまま僅か3年でプロ生活にピリオド
を打った。
 現在は新潟市内で少年野球の指導などに汗を流す。









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