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| OB選手 | ま行 |
| 三輪 悟 Satoru Miwa |
| 新潟市 1945.9.18生 投 手 右投右打 新潟市工−新潟市水道局−東光商事−電電信越→ 西鉄・太平洋(70D2−74)→広島(75−80) |
| 335試合 17勝40敗2S 3.48 |
| 高校時代は新潟市立工(現市立高志)のエース。当時、市工は附船町にあ り(校舎は現・市北部総合コミュニティセンター)、野球部員らは校舎に程 近い砂浜をランニングして、下半身を鍛錬したという。 64年、卒業と同時に新潟市水道局に入局、軟式に転向して競技を続行。 この年6月に襲った新潟地震では震災直後から、市内のあちこちで破断し た水道管の復旧作業に汗を流す。その後、スカウトを受けて硬式に再転向 する。社会人時代は電気化学、電電信越、三協精機などの補強選手として 都市対抗野球に出場し、中央球界から一躍注目を集める。 69年オフ、24歳の時に西鉄の2位指名を受ける。「飛び上がるほど嬉し かった」のも束の間、ルーキーイヤーの翌70年にいきなり、西鉄が「黒い 霧事件」の影響をまともに受け、主力投手がごっそり抜けるという不運を 味わうが、東尾修のプロ初勝利(5.16、対東映戦、平和台)をリリーフする など、厳しい台所事情の中で序盤戦からフル回転の活躍を見せ、当時「救 世主」とも謳われたほど。この年、西鉄からはただ一人、オールスター出 場も果たし、結局1年目からシーズン通算で45試合に登板、7勝14敗、チー ムで唯一防御率10位以内(7位)となる2.91をマーク。西鉄末期から太平洋 クラブに至る、ライオンズの低迷期を支えた一人である。 プロ5年目の74年オフ、ルーツ監督のトレード策により、米山哲夫と共 に2対2のトレードで広島へ移籍(太平洋へは西沢正次、松林茂が移籍)。 翌75年から、広島では主に中継ぎとして活躍。この年は広島が球団史 上初のリーグ優勝を果たした、いわゆる“赤ヘルフィーバー”。自身も 22試合に登板し、初優勝に貢献した。因みにこの年、まさに優勝争いの 真っ只中だった9月27・28日には新潟で対ヤクルト戦が開催された(ビジ ター)。三輪自身は登板機会はなかったが、28日・鳥屋野の試合前には花 束贈呈を受けている。 中継ぎがまだまだ認知されていなかった時代、11年間で335試合に登板 して、通算17勝1S、防御率3点台前半という好成績を残し、80年に任意 引退となり、スコアラーに。 以降、広島球団内ではスコアラー、広報、マネージャーなどを務め、 現在は広報部長。広島市民球場の一塁側ダッグアウト裏に陣取り、試合 中の選手のコメント取りやメディアの対応などに、忙しい日々を過ごす。 |