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| 現役コーチ |
| 関本四十四 Shitoshi Sekimoto | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 糸魚川市 1949.5.1生 投 手 右投両打 糸魚川商工→巨人(68D10−75)→太平洋(76)→大洋(77−78) |
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| 166試合 27勝41敗1S 3.14 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 新人王(71)、防御率1位(74) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 67年夏、富山商が糸魚川商工と練習試合を行った折、加藤スカウトの目に止まる。 その年オフのドラフトで、巨人の10位指名を受けてプロ入り。 プロ入りから暫くは、主に一軍の打撃投手を務める。内角にシュートを多投して、右打者からは 練習相手となることを嫌がられたという。3年間のファーム暮らしを経て、70年オフに川上哲治監督 の抜擢を受け、背番号は53から20に昇番。翌71年春の米・ベロビーチキャンプにも帯同した。 こうして4年目にして一軍定着。開幕2戦目の対広島戦(後楽園)で2点のビハインドの場面で救援し、 打線の援護で逆転してプロ初勝利をマーク。この年は先発に中継ぎにとフル回転し、10勝11敗、防御 率2.14をマークしてリーグ優勝に貢献した。 その年の阪急との日本シリーズ、第2戦は奇襲策で先発し、1回投げただけで降板。2回から高橋一三 にスイッチするが、これが裏目に出て6−8と逆転負け。第3戦(10月15日・後楽園)では山田久志と投 げ合い、9回まで1失点で完投。その裏、王貞治が逆転サヨナラ3ランを放ち、勝ち投手に。この一打で 巨人は流れを引き戻し、日本一7連覇を果たす。自身もプロ4年目にして、セ・リーグ新人王に選出さ れた。 その後2年間は今ひとつ結果を残せなかったが、74年6月9日・対ヤクルト戦(神宮)で、初回、ロジャ ーに安打を許しただけの1安打完封をマークするなど活躍。この年、防御率2.28の好成績をマークして 初のタイトルを獲得した。 しかし、ルーキー・定岡正二に20番を譲り、自らの名に因んだ44番に背番号を変更した翌75年は、 僅か14試合の登板で、0勝4敗、3.94と不振。チームも最下位に沈み、自身もシーズン中に首脳陣批判 など舌禍を起こし、物議を醸す。更に7月3日、先発した対中日16回戦(札幌円山)の6回表一死一、三塁 の場面で、飯田の三ゴロから本塁を突こうとした三走・高木守道を三本間の挟殺網に掛け、関本が高 木の顔面に激しくタッチ。このラフプレーにクレームを付けた高木に対し、関本は左手にグラブをは めたまま高木の右頬を殴打。これがきっかけで両チームが大乱闘を演じることとなった(関本は退場。 因みにこの試合で勝ち投手になった中日・鈴木孝政は「勝つには勝ったけど、守道さんが殴られたり したこともあって変なムードだった」と述懐している)。これらの不祥事が仇となり、素行不良者とい う烙印を押された関本はこの年オフ、加藤初との交換トレードで太平洋に移籍。しかし76年は右肩を 故障するなど成績は惨憺たるもので、1勝4敗、4.83と背信の成績で、そのオフに再びトレード要員と なる。 77年、山下律夫との交換で大洋へ移籍したのを機に、登録名を「充宏」に改名したが、故障は全く 癒えず、2年間で一軍戦は計8試合の登板にとどまり、かつての輝きを取り戻すことは遂にできなかっ た。78年オフの納会で自ら任意引退を申し出、この年限りで引退。 一軍実働8年間で、日本一、最下位、オールスター出場、2度のトレード、更にはチームの本拠地移 転をも経験。新潟県出身選手としては、新人王と投手部門タイトルホルダーの、それぞれ第一号。 引退後は86〜91年、巨人の二軍投手コーチなどを勤め、この間、RFラジオ日本の解説者など。 自著に「誰も書かなかったジャイアンツ・二軍生活の内幕」(恒文社刊)があるように、自らを育んだ ファームには人一倍の愛着があることもあって、巨人の二軍・若手選手の情報には特に長ける。解説 者時代から、手弁当で二軍の地方ゲーム視察に向かうことも多かった(東北遠征の際には、自ら運転 して視察に向かうほど)。少年野球などの指導にも積極的。04年、二軍投手コーチとして巨人に復帰。 因みに90〜91年(三軍投手コーチ)に着けた背番号は「144」。日本プロ野球史上、最も大きな数字 の背番号である(03年シーズン終了現在)。 |
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